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1999.9.11

熱狂のカリビアン・パレード
ニューヨークは北緯41°のカリブ海


■カリビアン・パレード■

9月6日はアメリカではレイバー・デイという祝日で、これはアメリカ国民にとってサマー・バケーション・シーズンの終わりを告げる日でもある。そのレイバー・デイにニューヨークのブルックリンでは毎年、大規模なカリビアン・パレードが催される。
ジャマイカ、トリニダッド&トバゴ、ハイチ、ヴァージン・アイランド、グレナダ…カリブ海に浮かぶ無数の島々、国々からの移民がブルックリンにはたくさん住んでおり、一大カリビアン(別名ウエスト・インディアン=西インド諸島)コミュニティがある。カリビアン人口の増大と共にこのパレードは年々規模が拡大し、今年はマンハッタン、ブロンクス、クイーンズ、スタテン・アイランド、ニュージャージーといったニューヨーク全域と周辺地区に住むカリビアンも押し寄せ、実に200万人の人出となった。
 
リオのカーニバルの衣装を思い出してほしい。あの全身スパンコールで飾られたきらびやかな衣装に、さらにカリビアン特有のクジャクの羽飾りが揺れている。そうやって思いっきり着飾った人々が、ドラム缶から作られたとはとても思えないパン・スティール(スティール・ドラム)の生み出すカリプソ・リズムに合わせて踊り、町中を練り歩く。ストリートにはカリビアン・フードの屋台がところ狭しと立ち並び、人々は懐かしい故郷の料理に舌鼓をうつ。ジャマイカン・ビール“レッド・ストライプ”や、さとうきびジュースも人気だ。またママたちは自宅のキッチンに大量のカリビアン・フードを用意し、この日ばかりはドアの鍵をしめないという。親戚や友人達が入れ替わり立ち替わりやって来ては料理をつまんでいくからだ。
 
以下はデイリー・ニュース紙に掲載された見物人のコメント。
「このパレードはね、(自分がカリビアンであるという)プライドで血が沸きたっちゃうの」「私? 私はここに自分の国を代表して来てるのよ。ヴァージン・アイランドよ」…リサ・リチャーズ
 
「このパレードが大好き。みんなハッピーで仲よくて、まるでワン・ビッグ・ハッピー・ファミリーよ」…ラニータ・ドリュー
 
「このパレードはほんとに楽しみだ。10年、15年と会ってなかった友達に会えるしな。まるで(故郷の)グレナダでのパレードと同じだ」…セルウィン・ニンブレッテ(51才)
 
「そのとおり。まるで故郷に帰ったみたいだよ」…アンディ・ヒララール(20才)
 
インタビューからはパレードが単なる娯楽の域を超え、カリビアンとしてのプライドと絆を確認するための場だということが伺える。人口が増え、こういった華やかなイベントが開催できるまでになったとはいえ、ニューヨークのカリビアンには“移民”としての差別、“黒人”としての差別に苦しんでいる人が圧倒的に多く、その差別は“貧困”に直結している。だからこそ、人々はこの日ばかりは日々の生活のストレスから解放され、自分たちの誇りとお互いのつながりを再確認したいと願うのだろう。
しかしいったん楽しむとなったらそこはカリビアン。ニューヨークという都会に暮らしていても南国の血を忘れてはいない。積極的に歌って踊り、喋って笑って食べて飲むという彼らの陽性な気質が、シャイな日本人としてはうらやましくもある。


 
■ソーサ・フィーバー■

ニューヨークのラティーノたちが今、気が気ではないのがサミー・ソーサとマーク・マクガイアのホームラン・レース。
ソーサ選手はカリブ海に浮かぶドミニカ共和国の出身で、ニューヨークにはワシントン・ハイツというドミニカ共和国出身者が多く住むエリアがある。ソーサはシカゴ・カブスの選手だが、そんなことは“同郷の絆”のまえでは一切関係なし。ワシントン・ハイツのスポーツ用品店ではカブスの野球帽が品薄になっているという。ニューヨーカーがカブスのキャップを被っているなんて前代未聞の出来事だ。
 
58本目を打った時点でのソーサのコメントは「ああ、多分60本はいくだろう。だけど今、そんなことは気にしてないよ」といたってクール。チーム自体の成績が芳しくないからだろう。しかしニューヨークのソーサ・ファンにとってはカブスの成績も関係なし。自分の車のボディに「ソーサ60」とペイントしたり、さらには「計算はいたって簡単だ。このまま1試合おきにホームランを打ったら70本になるのさ」と言い切ったり。とにかくニューヨークのドミニカンたちは“我らがサミー”が今年こそマクガイアに勝ち、しかも71本以上の新記録を打ち立てることを今や遅しと待ちかまえているのだ。
 
ただし気になることがひとつ。往年の米大リーグの名選手ハンク・アーロンがベイブ・ルースの生涯通算ホームラン記録714本を破ろうとしていた1972年から1974年にかけて、黒人であるアーロン選手のもとにはベイブ・ルースの記録を破るなら殺してやる、といった類いの脅迫が相次ぎ、本人と家族には警察の護衛までついたそうだ。当時からは四半世紀が過ぎているとはいえ、ソーサに対してはどうなんだろう。去年のホームラン合戦の最中にもそういった報道は一切なかったけれど。


 
■MTVミュージック・ビデオ・アワード速報■

9月9日にニューヨークで開催されたMTVミュージック・ビデオ・アワードではローリン・ヒルがヒット曲「ザット・シング」で4部門を受賞。ローリンはアメリカ生まれのハイチ系。今年ラテン旋風を巻き起こしたプエルト・リコ生まれのリッキー・マーティンも複数部門で受賞。


 
■ブラスバンド・イン・ハイチ■

ローリンが米国生まれのハイチアンなのに対し、同じフージーズのメンバーであるワイクリフ・ジョンはハイチで生まれ、9才でニューヨークに移住している。かつてフージーズがグラミー賞のラップ部門で最優秀賞を受賞した際にワイクリフはハイチ国旗を身にまとってステージに現れたが、以来彼らは母国ハイチでも国民的スーパースターとなっている。
以後、度々ハイチでコンサートを開いているフージーズだが、この度ワイクリフがハイチの子供たちに音楽的支援をするための“ワイクリフ・ジョン基金”を設立した。
 
1996年にワイクリフとローリンがハイチの学校を訪れた際に、子供たちが彼らのヒット曲「キリング・ミー・ソフトリー」を演奏してくれたのだが、その楽器のひどさに驚いたワイクリフがブラスバンド楽器を寄贈。その後もいろいろとハイチの子供の音楽教育のために尽力してきたワイクリフだが、さらに音楽センター設立のために基金を発足した。
ワイクリフは語る。ワイクリフが子供の頃に母親がギターを与えてくれ、それが現在の彼を形作っていると。子供たちには麻薬やギャングがうずまく危険なストリートから距離を置き、熱中する何かが必要だと。また彼がまだ小さな子供でハイチで暮らしていた頃、まわりの大人たちは「アメリカに行けば夢がかなうんだ」と彼に言い続け、以来、彼はもし自分がアメリカで成功したら、誰もが参加できてコミュニティに貢献できるコンサートを開くことを心に決めたと。
そう言えばサミー・ソーサも母国ドミニカ共和国のためにいろいろと尽くしている。昨年のホームラン合戦終了後に来日した際には、阪神淡路大震災で使われたプレハブ仮設住宅を、ハリケーン襲来で壊滅的被害を受けたドミニカのためにもらい受けていたことを思い出す。


 

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