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2001/07/20

ファインダーを通して眺めるハーレム



 カメラを片手にハーレムを歩いてみる。すっかり歩き慣れた通りや街角なのに、“写真を撮る”というピンポイントな視点で改めて見つめてみると、その奥深さ、複雑さには驚かされるばかりだ。


 ハーレムは1930年頃に現在のような黒人地区となった。当時から、ここには黒人の生活と人生に必要なものが全てあった。つまり、白人と同じ場所では暮らせなかった黒人が、自分たちのために作り上げた街だから、生活の基本である衣食住と文化娯楽の全てが、ここで賄えるようになっていたのだ。


 また、当時たとえ中流や上流階級となったとしても黒人は黒人である以上、ハーレムに留まるしか道はなかった。だからハーレムにはそういった人々が暮らし、今も暮らしている高級住宅エリアもあれば、歓楽地、文化活動の中心地もあった。もちろん、スラムと呼ぶしかない貧困地区は当時も今もかなりある。


 その後、黒人をとりまく状況は相変わらず厳しいながらも、少しずつは変わり、ハーレムの様子も刻一刻と変化を続けている。それでもマンハッタンの他の部分に比べると、ずいぶんと遅れた再開発となった。だからこそ、現在ここには“昔のハーレム”と“今のハーレム”が微妙なバランスで同居している。

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 ハーレムの風景の複雑さを成している理由のひとつは、その歴史ある建物群。黒人街となる以前、ここはオランダ人やユダヤ人の街だった。当時の凝ったデザインの建物がたくさん残っていて、古いヨーロッパを思わせる街並みがいまだに多い。たとえ今は低所得者地区となっていても、道幅の広い通りや、建築物の壮麗な外観は昔のままだ。


 夕方、ニューヨークは緯度の低さから強烈な西陽を浴びる。その眩しさに目を細めながらレノックス・アベニューを眺めると、凝った窓枠やベランダのデザインは昔のままでありながら、1階はありきたりな看板を掲げた店舗となっている建物がたくさんあって、そこをたくさんの人々が行き来している。なんとも不思議な光景だ。


 また一本一本の通りを丹念に歩いてみると、ここが見事な被写体の宝庫だということが直ぐに判る。「ラルフと、その息子の床屋」とアンティークな文字で書かれたウィンドウにジェームス・ブラウンの写真を飾ってある理髪店。中をのぞいて見ると、暇そうな店主は新聞を読みながら中華のテイクアウトを食べている。


 フェドラと呼ばれる1950年代に紳士が被っていた帽子と、それにマッチした派手なシャツ姿で「天気さえ良ければ、毎日ここで店を出しているさ」と言うシルバー・アクセサリーの露天商。その背後には信号機のポールが立っていて、「マルコムX通り」の標識と、誰かが貼ったラッパー:スヌープ・ドッグのチラシが並んでいる。


 そんな通りを、日曜日には教会帰りの、目も眩まんばかりに正装した人々が歩き、平日の夕刻にはスーツ姿のオフィスワーカーが足早に歩く。ラジカセをかついで、ぶらぶら歩く若い男もいれば、勤め帰りに保育所に立ち寄り、子供の手をひいて帰宅する忙しい母親もいる。


 また、明らかにスラムと言える通りに入ると、そこでは大人たちが舗道にテーブルを持ち出して和気あいあいとドミノ・ゲームに興じていたり、子供たちがダブルダッチで遊んでいたり。汚れた建物の壁には、もうハーレムからはほとんど消されてしまったはずの1980年代のグラフィティや、いつからそこに貼ってあるのか、すっかり錆びてしまったコーラのブリキ板広告が、いまだ残っていたり。


 このハーレムの複雑で不思議な、そして、いつかは消えてしまうかもしれない表情を、いったいどれ程の人が知っているのだろうか。


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