ハーレム

2001/09/08

ハーレムの時の流れ方
〜午後のジャズ・バーにて〜



 ハーレムは実のところ、とても“静か”な街だ。人々は長年ここに暮らし、その間にいつしかハーレムならではの、ゆったりとした時間の流れを作り上げてしまったのだ。

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 ある日の午後、友人とハーレム145丁目あたりを歩いていた。歩き疲れて、ひと休みしたくなり、セント・ニックス・パブというジャズ・バーに入った。ここはかなり有名な店で、夜になればジャム・セッションを見に来る観光客で立ち見もままならないほどになる。けれどその時はまだ午後3時、店は開いているものの、カウンターの中に恰幅の良い女性バーテンダーがいて、スツールに、やはり店の関係者のような初老の男性が座っているだけ。店内は静かでBGMすら流れていない。


 「営業中? コーラ飲める?」と声をかけると、カウンターに座っている枯れ木のようにやせた、そのおじさんが振り向いた。
 「コーラ? そりゃ何でも、あんたの飲みたいもの出すけど、コーラ1杯に3ドルも出すのか?」
 おじさんには不思議だったのだ。ジャズを聴くためならいざ知らず、単にコーラが飲みたいだけなら、そこらじゅうにある食料品店で75セントで買えるじゃないか。


 それでもとにかくコーラを頼んで、テーブルに座った。やがておじさんは氷の入ったグラスふたつに、無言で1本のコーラを注ぎ分けてくれた。これなら1人1.5ドル。こちらが頼んだわけでもないのに、おじさんにはやはり、ただ座って飲むだけのコーラに1人3ドルは法外に思えたのだろう。


 静かな店内で、壁に貼ってあるマイルス・デイヴィスや、他のたくさんのミュージシャンの写真に囲まれて友人と話し込む。昼下がりの無音のジャズ・バーに、私と、友人と、女性バーテンダーと、相変わらずカウンターで新聞を読んでいるおじさんだけ。


 おそらく1時間は過ぎたであろう頃に、おじさんが再びテーブルにやって来た。
 「今からダウンタウンに行かなくちゃならないんだ。精算してくれるかな?」
 ちなみに彼はグリニッジ・ヴィレッジやイースト・ヴィレッジに行こうとしているわけではない。ハーレムの住人は、ハーレムより南の地区をすべて“ダウンタウン”と呼ぶのだ。
 チップ込みで4ドルを払うと「3ドルだよ」と言って1ドル札を返そうとする。それはチップだと言うと「ああ、そう。ありがとう」と受け取り、おじさんはやがて店を出ていった。

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 ハーレムが現在のような黒人地区になったのは1920年頃で、それからでも既に80年が経っているし、そもそも現在“アフリカン−アメリカン”と呼ばれている人たちの祖先は、1600年代以降に奴隷としてアフリカ大陸から北米に連れてこられたのだ。要するに彼らはこの国に400年間、つまり10世代、20世代に渡って住み続けている。その頃から今に至るまで差別や貧困といった苦難は延々と続いているけれど、それでも人々はそういった問題とどう折り合いをつけるべきか、よく知っている。その折り合い方法の中には残念ながら“あきらめ”もあるから、ただ日々を淡々と過ごしている者も多い。その一方で最近ではミドルクラスとなる者も増えているけれど、彼らの多くは声高に何かを主張するよりも、無言の努力の果てに成功を手に入れたのだ。


 だから、例えば同じニューヨークでもブルックリンのカリビアン地区など移民の街に行くと、ハーレムとの様子の違いに驚かされる。カリビアンも人種的には黒人であるけれど、既に根っからの“アメリカ人”となっているアフリカン−アメリカンとは違い、まだまだこの国での歴史の浅い、新しい移民たちだ(*1)。母国の経済状態が悪いからこそアメリカを夢見てやってきた移民たちには、新天地にやってきたんだ、という希望と活気がある。それはカリビアン・コミュニティのメイン・ストリートを歩くだけでも十分に感じられる。安い衣料品や生活用品、カリビアン特有の食料品などの店が連なる、どうということのない商店街なのだけれど、そこにはなんとも説明のしようのないパワーが満ち溢れている。そして、それは今のハーレムには、もう無いものだ。

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 ハーレムは今、再開発が進んで急激に変わりつつある。いろいろな店が増え、新しいアパートメントが建てられ、あらゆる人種の流入が始まり、世界中のメディアの注目を浴びるようになった。それでもここハーレムには、そんな雑音を一切気にせずにマイペースで暮らす人たちや、昔ながらの、ゆったりとした時の流れが残っている。



(*1)…ここで言うカリビアンとは、カリブ海諸国(ジャマイカ、トリニダード&トバゴ、ハイチ他)に住む黒人。彼らは昔、カリブ海諸国のサトウキビ農園で働かされる奴隷として、アフリカ大陸から連れてこられた。だからルーツは奴隷として北米大陸に連れてこられた、いわゆる“アフリカン−アメリカン”と同じということになるけれど、カリビアンたちはそれぞれの島で特有のカルチャー(言語、食べ物、音楽、思想など)を発達させ、現在はニューヨークにも大量に移住している。

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