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1999.7.24

ブラックムービー徒然編
弾丸飛び交うギャング映画から
美味しいホームドラマまで



 
●かつてサミュエル・L.ジャクソンとローレンス・フィッシュバーンのブレイクを予言した私ですが(自慢)、次に来るのはちょっとタイプの違うハロルド・ペリヌーだと、ここで新たに宣言致します。丸くて大きな瞳とドレッドロックのキュート・ガイ。
アメリカのTVドラマ・シリーズ「Оz」(97年)で、ドラマの狂言回し役であり、しかも車椅子の囚人という難しい役どころを演じ、カリブ海系のチャーミングなルックスに反してなかなかの芸達者振りを発揮。ついでに知性派でもあると見た。
映画「ロミオ+ジュリエット」(96年)ではデカプリオのいとこ役として女装したり、ドラッグでハイになったりして、あげくに宿敵に殺されてしまった。(映画自体はたいして面白いとは思わなかったけれど、白人のデカプリオのいとこが黒人という配役の破天荒さには感心。)
また童顔の彼は、ブルックリンを舞台にした煙草屋ほのぼの物語「スモーク」(95年)にも高校生役で、しかもフォレスト・ウィティカーの息子役で出演しているので、チェックしてみてください。
Internet Movie Database Ltd. のディスコグラフィーによると、ペリヌーは今年4本の映画に出演、中の一本は“白人男性と黒人男性が映画について議論するだけ”という超ド・マイナーな作品ながら主演。これはいよいよブレイク間近ということでしょう。ふふふ。


 
●そのハロルド・ペリヌーが9年前にチョイ役でひっそりと出演していたのがアベル・フェラーラ監督の「キング・オブ・ニューヨーク」(90年)。これも私の好きなクリストファー・ウォーケンが、白人でありながらニューヨークの黒人ギャング団のリーダーというヘンな物語。そしてそのギャングチームで一番キレてる殺人マシーンがローレンス・フィッシュバーン。一方ギャングチーム壊滅を目指して捜査を続けている刑事がなんとウェズリー・スナイプス。私にとってはまさにドリームチームな作品で、とうぜん映画終盤のフィッシュバーンVSスナイプスの死闘銃撃戦を、当時は両手をグーにして見入っていたものです。(先日ニュースで、ニューヨークで開催された子供のためのイベントで、揃いのTシャツを来て子供たちと遊ぶフィッシュバーンを発見。でも顔はいつもどおり、コワいまんまでした。ちょっとは笑うとか。)
…しかしながら実は最近、以前と違ってバイオレンス物に触手が全然動かない私。だから同じくアベル・フェラーラ監督、クリストファー・ウォーケン主演のマフィア物「フューネラル」(97年)も見ていない。でも当時は見逃していた、というより全然知らなかったハロルド・ペリヌーを“再発見”するためにもう一度見るか「キング・オブ・ニューヨーク」。


 
●昨日の夜、テレビでもう何十回目かの放映となっていた「48時間 PART2〜帰って来たふたり」(90年)を、またしても見てしまった。ニック・ノルティ演じるはみだし刑事と、エディ・マーフィー演じる口八丁な囚人による、いわゆる典型的バディ・ムービー。何度見てもふたりのやり取りがたまらない。(ところで、エディって耳がちっちゃい。ウィル・スミスの半分くらい。いや、ウィル・スミスのがデカいのか。)
理屈抜きで楽しめるアクション物なんだけれど、でも、細部をよ〜く見ていると、なんだかヘン。たとえばニック・ノルティの同僚刑事には黒人がいない。正確にいうと、署内の風景の一部としては何人か写るけれど、セリフのある人物はいない。一方、二人が捜査のために出向くバー。いかにもチンピラがくだまいてそうな安っぽくて猥雑な店。混んだ店内の客たちをよく見ると白人もいれば黒人もいる。でも白人のなかでいちばん黒人差別を露骨に表すレッドネック(田舎の貧乏白人の蔑称)タイプは、普通黒人と同じ店で飲んだりしない。おまけにステージではメンバー全員が黒人ミュージシャンによるバンドが“ロック”を演奏している。ヘン。こんなバー実在しないぞ。それともヒッピー発祥の地サンフランシスコって、やっぱりそんな“自由”な風土の街? (他の都市も含めて、その辺りの事情を知ってる人がいたら、ぜひ教えて下さい。)


 
私たち日本人も“白人の目”で作られた映画に馴染みすぎていて、その内容や映像の偏りになかなか気付かないでいるけれど、でもアメリカを旅行したことのある人なら、画面をよく見てほしい。実は多くのアメリカ映画が「なんかヘン」だということに気付くはず。もちろん細かい部分なんか気にせず、単なる娯楽作品として大人が楽しむぶんには問題ないんだろうし、私も好きな映画のひとつなんだけれど…。でも今一度この作品でセリフのある黒人キャストをあげてみると…
 
・エディ演じる主人公レジー…頭の回転が早く、お洒落で魅力的。でも囚人。
・アイスマンの手下…インテリ・タイプの冷徹で、しかもクレイジーな犯罪者。
・女スリ…バーで男に言い寄り、サイフをスる。
・女A、B…バーの客。
・カークランド…レジーに獄中から情報提供する中年犯罪者。
・その娘…スーパーのレジ係。犯罪者を嫌う真面目な市民。でも父親思い。
 
黒人の子供がこのタイプの映画を見た時の反応は? もちろんエディが活躍するたびに拍手喝采、特にニック・ノルティや白人の犯人をぶちのめすシーンでは気分爽快。でも子供自身も気づかないうちにその心にしみ込んでしまうのはきっと“黒人は犯罪者”というイメージ。唯一まっとうなキャラクターであるカークランドの娘も、しょせんレジ係。黒人の選べる道は結局、犯罪者か低所得労働者ということを暗に示している。


 
たかが娯楽映画にいちいち目くじらをたてることはないでしょ、と私自身も思ってしまうけれど、でも、似たような映画は他にも、それこそ掃いて捨てるほどある。そして、まだ小さな子供にステレオタイプの映像を繰り返し繰り返し見せることは、その子供の将来に絶対にかかわってくると思う。


 
平和な日本にいるとなかなかピンと来ないけれど、ちょっと想像してほしい。人口を上回る数の銃がそこら中にいきわたっている国の、特に貧しい黒人地区に住む、例えばまだ7才の黒人の子供−その子にもちゃんと名前はある。たとえばボブだったり、スティーヴンだったり−が毎日毎日そういった映画をテレビで見続け、知らず知らずのうちに「ぼくも大人になったらギャングになるのかも」と思い始め、実際にティーンエイジャーになったとき、将来の選択肢があまりにも狭いことに気づき、犯罪に走る。銃が数十ドルで手に入り、また知り合いの中に犯罪者がいる率がかなり高いスラム街の子供たちにとって、犯罪にかかわることは私たち日本人が思うよりはるかに簡単なこと。映画やメディアだけにその責任があるのではないことは勿論だけれど、その一端を担ってることは確かだと、私は思っている。
 
※公正を期すために付け加えると、この映画はエディ自身も原案作りに参加している。
 

●と言っているうちに、しばらく前に観たエディ・マーフィーの少し前の作品「ネゴシエイター」(97年)を思い出した。相変わらずの刑事役なんだけれど、彼にとって初めてのシリアスものとかで、あのマシンガントークとギャグがない分、なんだか損した感じ。やっぱりエディはコメディに限る。
それはともかく、この作品ではあちこちに、おそらく彼自身の人種に関するこだわりを見ることが出来る。
この作品も「48時間」と同じくサンフランシスコが舞台なのだけれど、サンフランシスコと言えば、そう、チャイナタウン(安直?)ということで犯人はチャイニーズ・マフィアだし、同僚の女性刑事キムラはその名のとおり日系。エディのガールフレンドはもちろん黒人でジャーナリスト。他にも脇役として黒人俳優が多数参加。つまり劇中人口に占めるマイノリティの比率が「48時間」に比べてかなり高い。時代の流れを感じます。
(ところで、この映画にはサンフランシスコにたくさんいる筈のメキシコ人がほとんど出てこない。エディはチカーノがお嫌い?) 
 

ともあれ、作家本人の思想や趣味をほぼ100%押し出すことのできる小説と違い、巨大資本の絡んだ映画はとにかく売れることを前提に作られる。たとえ監督や脚本家や出演者などに何か目指すもの、あるいは志すものがあっても、それが“売れない”ものであれば却下されるのみ。その代わり、いったんヒットすれば世界中で何億人、何十億人という人が観る。そして柳の下とばかりに同じような作品が連打される。従ってその影響力は“たかが娯楽”で済むレベルではなくなる。
たとえば「ネゴシエーター」にチャイニーズ・マフィアが出てきたけれど、イタリア系と中国系の人たちは安易にマフィアをイメージされるのを本当はすごく嫌がっている。私のかつてのクラスメイトで、イタリアのシチリア島出身の男性は、自己紹介の際には「マフィアのことは言わないでよ」と必ず前置きしていた。映画「ゴッドファーザー」でイタリアン・マフィア発祥の地として一躍有名になって以来、どこの国に言っても「シチリア? あぁ、マフィアの島ね」と言われるらしい。
 

●近年のブラックムービーはまず“白人監督、黒人主演、他の登場人物はすべて白人によるアクション物もしくはコメディ”に始まった。(たとえばエディ・マーフィーやウーピー・ゴールドバーグ主演作)
それから“黒人監督による、黒人の抱える社会問題を描いたシリアス作品”がやってきた。(もちろんスパイク・リー監督の登場により。)
そして、ついに“黒人監督、オール黒人キャストによるフツーの黒人ドラマ”が作られ出した。
黒人家庭の伝統料理を家族の絆の象徴として描いた佳作「ソウル・フード」(97年)、若い黒人詩人とカメラマンの恋を描いた「ラヴ・ジョーンズ」(97年)、未見ながら、とあるレストランに集う若者たちを描いた「レストラン」(98年)。(ローリン・ヒルも出演、大阪ではこの週末から公開が始まった)
ところが、この待望の“フツーの黒人ドラマ”が作られ出した途端に、さらにその一歩先を踏み出したのがスパイク・リー。
彼の最新作「サマー・オブ・サム」は前回でも書いたとおり、77年のニューヨークの夏を描いた作品。その主要キャラクターをニューヨークのイタリア系アメリカ人に設定してあるので、出演俳優はとうぜん白人が多数を占めている。つまり史上初の“黒人監督による白人映画”と受け取られ、一部の黒人からは「スパイク・リーは白人に寝返った」と非難されているらしい。でも、それは違うと思う。映画監督も含めてアーティストであれば、自然といろんなことにアンテナが反応し、それを作品化したいと思うのは当然なわけで、スパイク・リーの場合、今回はそれが“77年の夏”だったということ。そして、その際にイタリア系を主人公にするのが面白いだろうと思ったまでのことだろう。(もっともスパイ・リーのこと、もっと深い計算があると思えるけれど、いかんせん、まだ観ていないのでなんとも言えない) とにかく、人の一歩先を行く者は常に攻撃される、のセオリーどおりである。
 

●そのスパイク・リー。作品を作るたびに話題を集める黒人映画監督。黒人とイタリア系アメリカ人や韓国人との衝突を描いた「ドゥ・ザ・ライト・シング」(89年)、黒人と白人のインターレイシャル(人種混合)ラヴを描いた「ジャングル・フィーバー」(91年)、黒人運動の指導者マルコムXの生涯を描いた「マルコムX」(92年)etc…。とにかくどの作品もcontroversial(議論を呼ぶ内容)で、いつもその作品の社会問題における部分ばかりが取りざたされる。
でも彼の“ヴィジュアル・アーティスト”としての才能にも目を向けて欲しい。彼の作品はとにかくポップ。その色彩感覚と、ショットをつなぐリズム感。
たとえば「ドゥ・ザ・ライク・シング」で、何もしないでひがな一日路上で過ごす老人たちを捉えたシーン。真っ赤に塗られた壁にパラソル、強烈な日射し、そして3人の老人。(これは後にシャウエッセンのCMでパクられた) また、ジョン・サヴェージ(!)に買ったばかりの白いスニーカーを踏まれたジャン・カルロ・エスポジート(彼も最も素晴らしいブラック・アクターのひとり)の視線の動かし方、などなどなど…。
他の監督にはおいそれとは真似のできないセンスを彼は確かに持っている。

 
※映画「ネゴシエイター」の犯人がチャイニーズ・マフィアというのは間違いでした。訂正いたします。


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