NYBCT

2005/12/20



スパニッシュハーレム/サウスブロンクス
in 1970〜80's






Bodega Doreams/
Ernesto Quinonez
■スパニッシュハーレム〜放火の時代


 12月18日のニューヨークタイムズ日曜版に、スパニッシュハーレム育ちのラティーノ作家、エルネスト・クイニョネスのエッセイ「ザ・ファイアー・ラスト・タイム The Fires Last Time」が掲載されていた。


 紙面には大きな白黒の写真もある:1970年代のスパニッシュハーレム。窓から炎と黒煙を吹き上げるアパートメントビル。ハシゴ車から屋上に飛び移った消防士。周囲でその様子を眺める数人のティーンエイジャー。それらを一切気にせず、バスケットボールに興じる4人の少年。


 1970年代のサウスブロンクス、スパニッシュハーレム、セントラルハーレム、ブルックリンのブラウンズヴィル……ニューヨークのゲットーでは、凄まじい数の放火が相次いでいた。写真の中でバスケをしている少年たちは火事を見飽きてしまい、やじ馬見物する気さえ失せていたのだ。


 当時、荒廃し切ったゲットーにアパートメントビルを持つ大家たちは、高騰する公共料金と、古い建物ゆえに莫大な金額になる修理費、それらを賄うことができない小額の家賃に音を上げた。家賃を値上げしようにも、低所得者しかいないゲットーでは無理だったのだ。そこで大家たちは火災保険を為しめ、その後はビルを放棄するために、持ちビルに放火を始めた。


 スパニッシュハーレムは、黒人の街セントラルハーレムの東に位置するエリア。1940年代までは全米最大のイタリア系コミュニティだったが、その後、徐々にプエルトリコ系が流入し、やがて全米最大規模のプエルトリコ人街となったのだった。


 エルネスト・クイニョネスは、1970年代のスパニッシュハーレムで育っている。母親がプエルトリコ系、父親はエクアドル系。現在、おそらく40代だと思われるクイニョネスは、公立学校で英語・スペイン語のバイリンガル教師をしながら、2000年に小説『ボデガ・ドリームズ Bodega Dremas』で文壇デビューを果たした。スパニッシュハーレムに暮らすティーンイジャーを主人公にしながら、実はスパニッシュハーレムという街そのものを描いた『ボデガ・ドリームズ』は、アーバン・ラテン文学の新たな声として話題になった。


 ニューヨークタイムズに掲載されたエッセイは、クイニョネスが子どもの頃に実際に体験した、スパニッシュハーレムでの放火についての物語だ。


 静かな筆致により、当時のスパニッシュハーレムに暮らす人々の様子が淡々と綴られている。アメリカ一の大都市ニューヨークに暮らしながら、スペイン語にしがみつき続ける大人たち。街に染み渡った貧困と暴力。日に日に荒んでいくアパートメントビル。その過程で放火される日も近いことを悟るクイニョネスの両親。結果的に放火が起こり、一時的に家族用ホームレスシェルターに入る一家。


 やがて一家は「犯罪の巣窟だが、放火される心配はない」プロジェクトに移り住む。プロジェクトとは低所得者専用の公団であり、民営ではないがゆえに、先に書いた理由による放火は起こらない。ただし、クイニョネスが書いているように、当時も現在もドラッグや銃の密売組織の根城になっていることが多い。スパニッシュハーレムは、ニューヨークでもっともプロジェクトが密集しているエリアなのだ。


 スパニッシュハーレムは、マンハッタンの最貧地区のひとつだ。対して、96丁目を挟んで隣り合わせているアッパーイーストサイド地区は、マンハッタンの最高級住宅地区。クイニョネスは、やはり押さえたトーンで、けれど痛烈に言う。「アッパーイーストサイドの住人は自分をインテリだと信じてバルザックやディケンズを読むが、そこに書かれているのと同じ(貧困の)物語が、自分の裏庭(スパニッシュハーレム)にあることなど、気に掛けはしない」


 クイニョネスはスパニッシュハーレムだけではなく、ニューヨークそのものを愛しており、人々がイメージする『セックス&ザ・シティ』やウディ・アレンの洗練されたニューヨークを自身も見てきたと言う。しかし、1970年代に燃え続けたゲットーもニューヨークの一部であり、なのにその記録はほとんど書き記されておらず、自分はそれをしているのだと言う。


 クイニョネスが2004年に出版した2作目『チャンゴズ・ファイアー Chango's Fire』は、再開発が進む現在のスパニッシュハーレムで雇われ放火師をしている青年、フリオの物語だ。



In The South Bronx of America/Mel Rosenthal
収録写真が見られます





Do or Die/
Martine Barrat
■サウスブロンクス〜ボクサー


 1970年代のサウスブロンクスでは、スパニッシュハーレムをはるかに上回る数の火事が連日起こり続け、新聞は「The Bronx is Burning ブロンクスは燃えている」という見出しを掲げた。


 「1970〜75年にかけて、サウスブロンクスでは68456件の火事が起こったとされている。一晩に33件以上だ」(In The South Bronx of America/Mel Rosenthal)


 焼け落ちたビルと、そのガレキ、そして回収されないままに路上に溜まり続けるゴミ。先進国アメリカの一部とは思えないほどに荒廃し、犯罪も多発した当時のサウスブロンクスを舞台にした、ポール・ニューマン主演の映画『アパッチ砦ブロンクス』(1981)が作られ、サウスブロンクスの汚名は世界中に広まった。


 1980年代に、いずれもニューヨークのゲットーであるサウスブロンクス、ハーレム、スパニッシュハーレム、ブルックリンのベッドスタイにあるボクシングジムに通い詰め、若いボクサーを撮り続けた写真家がいる。かれこれ40年近くハーレムに暮らしているフランス人女性フォトグラファーのマルティン・バラーだ。バラーが撮り溜めたゲットーのボクサーの写真は、モノクロ写真集『Do or Die』として出版されている。


 バラーは1979年に、友人である女性ボクサーに頼まれ、彼女の写真を撮りにマンハッタン163丁目にあるボクシングジムに行った。生まれて始めて足を踏み入れたジムで、バラーは6歳の少年ボクサー、カルロスに出会い、強烈に惹かれてしまう。



 このことをきっかけに、バラーはゲットーのジムでトレーニングを積むボクサーたちの撮影を始めた。カルロスの他にも10歳にも満たない子どもがいるし、10代の若者も多い。彼らがボクシングをする理由は、他の手段では手に入らない大金とリッチな暮らしだったとバラーは言う。


 写真集の巻頭には、当時のサウスブロンクスの光景がある。まだ街灯が灯っている夜明けのストリート。雨のあとで、池のように一面に水が張っている車道。ゴミが散乱した歩道。放火され、破れた窓が真っ暗な四角い穴のように見える廃虚ビル。ウィンドウが壊され、天蓋も外れて落ちてしまった店舗。


■ゲットーの匂い


 今、セントラルハーレムに続いて、スパニッシュハーレムとサウスブロンクスにも再開発の波が押し寄せている。特にスパニッシュハーレムには、新築のマンションビルが続々と建ち始めている。そんな光景を見てエルネスト・クイニョネスは、「ニューヨークは多様性を無くしてしまった。スパニッシュハーレムは他の街と同じようになってしまった」と語る。


 ゲットーがゲットーであった頃、人々は貧困と犯罪に苛まれていた。しかし、そこには特有の濃厚な文化、つまりフレイバーがあった。再開発が進み、新しい建物と住人がやってくると住環境は良くなるが、その代償として街の匂いが薄れてしまう。


 クイニョネスにようにゲットーで生まれ育った人間は、ゲットーが実在したことの証を残すことが、すなわち自分の軌跡の記録にもなるのだろう。


 バラーのようにゲットーに魅せられ、自らの選択でゲットーにやってきた人間は、ゲットーの醜悪さの中に美を見出し、それを記録しようとする。


 いずれにせよ、都市部マイノリティー貧困街=ゲットーには、人を惹き付けて止まない不思議なフレイバーがあることだけは確かなようだ。





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