NYBCT

1999.5.3

New York, NY 10011

THE FIRST YEAR

‐fall‐

 かっちりと仕立てられた黒っぽいスーツを着たその老人は、ニューヨーク市立図書館の裏手にあるブライアント・パークの角で道を尋ねてきた。秋からそろそろ冬へと変わる頃だったが、気持ちの良い小春日和の午後だった。
 斜めに射す日差しを背中に受けたその人のアクセントを聞くまでもなく、東欧の人だと判った。ラシャの匂いがしそうな折り目正しい紳士だ。その老人の目的地はそこから北へ向かって、ただ真っすぐに十七、八ブロック歩くだけ。それぞれに番号の振られたストリートとアヴェニューが交差するニューヨークで、こんな道の迷い方をするのは外国人だけだ。
 二十分も歩けば着くはずの距離だが老人の足では無理だと思い、地下鉄を勧める。ところが彼は「歩くほうが好きだから」と微笑し、「どこの国から来たのですか」と私に尋ねる。日本からだと答えると「あぁ、そうですか。それでは」と頷き、セントラル・パークの南端五十九丁目を目指して、かくしゃくと歩き出した。


‐winter‐


 ある夜、部屋に独りでいるのが何故かいたたまれなくなり、数ブロック離れた八十五丁目とレキシントン・アヴェニューの角にあるコーヒーショップへと出掛けた。アッパー・イースト・サイドに一時滞在していた頃。真っ白な壁にベッドとクローゼットと机、それだけの部屋。
 毎日、真夜中まで開けている店だが、ちょうど十時を過ぎて客が減り始めたところと見え、しばらく後には店員もわずか二人になった。ガラス壁を通して通行人が見える。コートの裾が風にはためいている。彼等からも私が見えているはずだが、私は彼等にとっては見慣れた風景であるコーヒーショップの一部だ。
 ふだんは低音量のクラシックが流れている店だが、人気(ひとけ)がなくなったのを幸いと、ドレッドロックの店員がボブ・マーリィをかけ始めた。カリブ海のリズムは温かい。気分も落ち着いてきた。持ってきた短編集を読みすすむ。
 しばらくしてその店員が私の隣りのテーブルを片付けに来たとき、思わず"Thank you for the good music."と声をかけた。彼はにこりともせず、肩をすくめて掃除を続ける。
 反対側のテーブルでは三十代半ばとおぼしき黒人男性がテーブルと言わず椅子と言わずに書類を広げ、考えをまとめる風に一点を見つめては、その都度なにやら書き込みをしている。彼がふと顔をあげて一息ついた瞬間に目が合った。「さっきから真剣に本を読んでるね」と疲れた笑顔で話しかけてきた。おもしろいけれど英語で読むのはまだ難しいから、と私が白状すると、「そう。僕は学校の教師なんだけど、とにかく忙しくて」とため息をつき、また書類に没頭し始める。
 そこへあの店員が戻ってきた。私にコーヒーを差し出す。"Here you are."
どうして奢ってくれるのかと聞く私にまた肩をすくめ、まだ短いドレッドロックを揺らしながらカウンターへと戻って行った。

 チェルシーとグリニッヂ・ヴィレッヂの境目となる十四丁目に大きな病院がある。巨大な白い建物がセヴンス・アヴェニューの両側に建っている。
 ふだん、その病院の入り口付近に一人の物乞いがいる。陽気な黒人だ。背が高くてスレンダー。顔立ちもそんなに悪くはない。日本人と見ると「アリガトゴザマース。べとなむセンソー、ニホンイマシター」と紙コップを振ってみせる。時々は近くの銀行の入り口でドアマンよろしく"Good afternoon, Ma'am." と客のためにドアを開けながら、やはり紙コップを振っている。クリスマスが近づいてくると、よく赤鼻のトナカイを歌っていた。
 ニューイヤーズ・イヴの夜に病院の前を通った。物乞いの姿はなかった。救急待合室の壁はガラス張りだ。ソファに心配げな顔をした人たちが座っている。救急車で搬送された病人やけが人の家族だ。暗い舗道から、ほの明るい待合室の人たちを眺める。物乞いの姿はない。ニューイヤーズ・イヴの夜。

‐spring‐


 日当たりの良くない部屋から、日差しと甘いものを求めて近所のデリ(食料品店兼総菜屋)に出掛ける。チョコレートをそのままケーキにしたようなスウィート・スウィート・ブラウニーを一切れ。紙袋を手にアパートへの道を戻る。ノーメイクにジーパン、着馴れたシャツ。
 ヒスパニックのティーンエイジャーが私に声をかけて通り過ぎる。"Hey, Little Dumpling!"(ヘイ、小っちゃなお菓子!)

 アパートを出て左手、三軒先にドライクリーニング屋がある。“ウィ・ウィ・クリーニング” 屋号はフランス語だが、経営者は韓国人夫婦。奥さんは愛想がよく、旦那さんはいつもソフト帽を被ってアイロンがけをしている。だが、私はめったに使わない。節約だ。
 アパートを出て右手に数百メートル。コインランドリーがある。“クイック・ランドロマット” 毎週末に行く。一週間分の汚れ物をひきずって。有料の洗濯サービスもしている店で、いつも従業員が洗濯機と乾燥機をフル回転させては、洗い上がった洗濯物をたたみ、ランドリーバッグに詰めている。全員がプエルトリカンの女性だ。機械の回る音と上がる蒸気、彼女たちの声高なスペイン語。
 季節の良いときにはお客は表に置いてあるガーデンチェアに座って時間をつぶす。ここで飼われている四匹の猫も傍らで昼寝をする。だが店の一番奥の椅子に座り、騒音のなかでひとり静かに雑誌を読んでいるのは“ウィ・ウィ・クリーニング”のソフト帽の主人だ。ドライクリーニング店の主がコインランドリーで洗濯中。
 陽だまりでまどろんでいる猫のうち、白いのは目が極端に細くて吊り上がっている。首にぶらさげたネームタグには"SUSHI"とある。

 学校の課題を抱えてドーナツ屋に行く。ガラスのウインドウを隔てて舗道に面したカウンター席に座る。日差しも入ってくる。
 学校の教師数人に配ってあったアンケート用紙は回収済みだ。「外国語に関する諸質問」 それらに再び目を通す。大抵の教師は程度の差こそあれ、外国語を話す。ヨーロッパ諸国語が多い。両親各々の母国語を含めて七ヶ国語を理解するという者も。好きな外国語は大半がイタリア語etc,etc,…これをレポートにまとめる。かじるドーナツから落ちる砂糖がノートにふりかかる。コーヒーは冷めてしまった。
 ふと顔を上げると、舗道に立つひとりの老人がガラス越しに、カウンターに広げたアンケート用紙を睨んでいる。愛すべき教師たちの悪筆を逆から読んでいるのだ。老人の顔の彫りは深い。ユダヤ人だろうか。見つめる私に老人は、そのまま続けろというふうに手を振り、相変わらず読み続ける。
 ペンを走らせる私。ガラスの壁。凝視する老人。陽の光。


‐summer‐


 初夏から夏の終わりにかけて、所用があって毎週土曜日にミッドタウン、マディソン・アヴェニュー沿いのとあるビルに通っていた。入り口のセキュリティ・デスクにはいつもおとなしそうな老齢のセキュリティ・ガードが座っている。ハイと、ひと声かけて来訪者用のノートに記帳する。
 三週目の土曜日にそのセキュリティが、記帳している私の手元を見て言った。「きれいな指輪をしているね。アラビア風のデザインだ」
 一日八時間座って、ビルに出入りする無数の人間を眺める。日がな一日。ただ座って人々を眺める。万が一、突発事故が起こったとしても、彼はきっと何も出来ない。訓練もされていないし、そんな体力ももうない。そしてそれは責められるのだろうか、もし何かが起こって、彼が適切に対処できなければ。
 そのまましばらく他愛のない立ち話をしているうちに、彼はマルタ島の出身だと言った。帰りに本屋に寄って地図を見た。マルタ島は、イタリア半島の先にあるシチリア島のさらに南、ほとんどアフリカに近い地中海に浮かぶごく小さな島国だった。
 次の土曜日、ノートにサインをしながら、マルタ島を地図で見たけれど、きっといいところなんでしょうね、と言うと「そう。とてもいいところだよ。長い間帰ってないけれど」と年老いたセキュリティは顔をほころばせた。

 国連ビルのすぐ側にある学校に通っていた。だから毎朝グランドセントラル駅を使う。複数の地下鉄と鉄道が乗り入れる巨大ステーション。築八十年を超える壮麗な建造物だが、常にどこかで改修工事が行われている。ドリルの音が響き、狭い通路は頻繁に迂回され、夏は蒸し暑い。誰もが汗をかき、苛立つ。込み合う階段での押した押さないの口論や掴み合い。
 ある日、満員の地下鉄に無理矢理に飛び乗ろうとした。"Stupid Bitch!!" 私よりひと足早く乗り込んだ白人女性が罵声を浴びせる。

 八月の終わり。暑い日だった。イベントとみれば出張ってくる屋台ではコークがよく売れていた。人は多かったが、隙間を縫って車道と歩道を隔てるバリケードの手前までなんとか進む。テレビ・ニュースの取材班も多い。
 ブルックリンの警察署のトイレで無実のハイチ移民が四人の白人警官からリンチを受け、重態に陥った。それから二十日。大規模な抗議デモが今日、行われる。デモの最終地点であるダウンタウンのニューヨーク市警本部前。デモ隊を応援しようと待ち受ける人々のほとんどは黒人。テレビ取材班と警官を除くと白人が若干。アジア人は数えるほど。
 発生以来、ニューヨークを震撼し続けた大事件。
 やがてデモ隊が見えてきた。日差しが強い。ブルックリン・ブリッジを渡る数千の人の波。シュプレヒコール。スローガンが書かれたプラカード。リンチに使われた便器の吸引器。だが、人々は落ち着いている。殺気だった気配はない。特設ステージに立つデモ隊のリーダーと群衆はコール&レスポンスを繰り返すが、人々はおしなべて穏やかだ。一万とも二万とも数えられた人々の胸に内包された、静かなる怒り。



THE SECOND YEAR

‐fall‐


 グランドセントラル駅の周りには無数のコーヒーショップがある。そのなかの一軒、駅と学校のちょうど中間にある店の壁際の席で、ほとんど毎朝ベーグルを食べた。夏のあいだはクリームチーズを塗るだけだったが、肌寒くなってからはトーストにしてもらう。レジで注文し、調理カウンターで受け取る。そこでパンを焼いたり、サンドイッチを作ったりしているのは小柄なヒスパニックの青年だ。補聴器をつけているが、サンキューと言って焼き上がったベーグルを渡してくれるところを見ると、発話に支障はないようだ。
 ある朝、いつものように彼からベーグルを受け取って食べ終わり、店を出ようとしたときに、カウンターの中から出てきた彼に折りたたんだ小さな紙切れを渡された。緊張した面持ちの彼はそそくさとカウンターの中に戻ってしまい、時間のない私はコーヒーショップのドアを押し開けながら紙切れを開いた。"You had always beautiful."(君はいつも綺麗だね)…身に余る光栄だ。だけど文法的には少々おかしい。
 おそらくプエルト・リコからの移住者だろう。母国語がスペイン語なのに加えて聴力障害があっては英語を覚えるのは困難だ。そんな青年が、毎朝、朝食時にニューヨーク・タイムズを読んでいる日本人(実は難しくて読めない記事も多かったのだが、そんなことは彼にはもちろん判らない)にラヴノートを渡すのには相当な勇気が必要だったに違いない。


‐winter‐


 チェルシーにはゲイが多く住む。通りやコーヒーショップで仲の良い恋人たちを頻繁に見かける。しかし、中には上手くいかない恋も当然ある。
 ユニオン・スクエアからいったん数ブロック北上し、フィフス・アヴェニュー、シックス・アヴェニュー、セヴンス・アヴェニューと横断しながらアパートまで歩くあいだに、何枚もの貼り紙を見た。建物の壁や公衆電話のブースで風にひらめいている。
 「ランス、どうして電話してくれないの? 電話をかけるか、会いにきて。君が恋しい」

 年が明けて間もない頃、友人とイースト・ヴィレッヂのバーにいた。安いアイリッシュ・バーだ。ビールを飲んで、あれやこれや話し込み、先の不安を実は抱えている者同士、それなりに楽しく過ごした。バーを出たのは夜中の十二時過ぎ。雨のしのつく寒い夜だった。
 セカンド・アヴェニューを渡ってセント・マークスプレイスへ入ろうとした時、わずかな人だかりに気づいた。濡れた路面に人が倒れている。男だ。上半身にのみ、白い布が被せられている。傍らに転がるスクーター。血は見えない。だが彼はもちろん、もうぴくりとも動かない。警官の姿はまだない。布は誰か通行人か、近くの店の人間がかけたのだろう。
 こんな寒い雨の夜に路上で独りで死んだ。家族や友人はまだ知らない。それぞれの家でごく普通の夜を過ごしている。

‐spring‐


 市立図書館で本の検索をする。コンピュータの脇にはメモ用紙として使えるよう、コピーに失敗した紙を備えてある。一枚取って本のタイトルを走り書きし、折りたたんでポケットに突っ込み、図書館を出た。風は冷たいが、日差しは明るい。いつものようにコーヒーショップに立ち寄る。さっきのメモを取り出し、なに気なく裏返す。裏面の仕損じたコピーは、驚いたことに誰かの出生証明書だ。端がわずかに切れている。
 赤ん坊の名前はジョナサン。1995年6月29日、午前1時56分に生まれている。じきに3才だ。両親は共にメキシコ出身だが、結婚はしていない。父親の名前をとったミドル・ネームと、両親の名字をハイフンでつないだ長いラスト・ネームを持つ。両親の市民権の有無にかかわらず、アメリカで生まれたこの子は自動的に米国市民だ。ジョナサン。生粋のニューヨークっ子。


EPILOGUE


 一年半に渡る「旅」は終わった。旅というには少々長かったが、これはやはり「旅」だった。
 ただし、結果的にはすべてに置いて中庸の立場に立つこととなった。観光客特有の瞬発的な昂揚感はなく、かといって永久に住み続ける移住者の決意と落ち着きもなく。国民性に基づいたメンタリティにおいても然り。アメリカ人の、特にニューヨーク人の気質に馴染みすぎてしまい、半ばそれを自分の中に取り込んでしまった。
 そんな私をアメリカ人の友人は"Betweener"と呼んだ。「中間にいる者」の意だ。日本とアメリカを行き来する旅人としてだけではなく、アーティストとノン・アーティストの境界に置いても私はやはりBetweenerだと彼は言った。私自身は芸術家ではないが音楽や文学や美術を愛好する。友人の何人かはミュージシャンであったり、小説家であったりするのだが、だから私は彼らを理解する。ただし、自分自身の内部にある「something‐何か」を芸術的手法で表すことはしないという訳だ。
 そんなBetweenerの私が記すニューヨークの旅とは? 
 ニューヨークの旅を思い起こすと、すべての印象的だった事柄が、それぞれ別の映画のなかの独立したシーンのように、とてもヴィヴィッドによみがえる。映画のワンシーンというよりは、もはやポラロイド写真のようだ。ニューヨークの人や風景を写した無数のポラロイド写真。その無数の写真を、一枚ずつ言葉に置き換えてはアルバムに貼っていく。すると、そこに封じ込められていた音や風、匂いや感情が行間から立ちのぼり始める。そして風景の断片にすぎなかったそれぞれのシーンに繋がりが見えてくる。一見、なんの関係もない場所や人や出来事が、実は私の中では繋がっていたのだ。秋の気配のなかで見たもの、聞いたものが、春のとある一日の別の場所での私の行動の理由になっている。直射日光を避けながら歩いたある日の誰かとの出会いが、翌冬の別の誰かとの会話に作用している。
 そうやって一年半のニューヨークの旅で私の中にたまった「何か」は、実はとてつもなく大きく複雑だ。だけど、この「大きな何か」あるいは「複雑な何か」を事細かに誰かに説明することは出来ない。私はただ私のアルバムを見せるだけ。そしてこのエッセイは、そのアルバムの一部なのだ。




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