NYBCT

2000/03/30

黒人に対する警察暴力
〜NY移民社会に潜む事情〜




昨年2月にニューヨークのブロンクスでアフリカからの移民アマドゥ・ディアロ氏(当時22才)が、4人の白人警官から41発の銃弾を浴びせられて亡くなった事件の「無罪」判決が2月25日に出た。ディアロ氏は前科もない露店商で、事件当夜、自宅前で車から降りてきた4人の白人私服警官に呼び止められて脅え、英語が流暢でなかった彼は、とっさに身分証明書を出そうとしてポケットのサイフに手を延ばしたと言われている。そのサイフが銃に見えたと警官たちは裁判で証言した。…警官が一般市民に41発もの発砲? なのに無罪? この判決が黒人コミュニティに及ぼした衝撃は量りしれないほどに大きい。


人々は怒り、あらゆる抗議運動が繰り返し行われたが、黒人たちはあくまで冷静に行動した。このことを不思議がる声をよく聞いた。なぜ暴動が起きないのかと。ひとつには黒人の中流化が進み、また米国の景気が良いことも手伝って、人々が精神的にも経済的にも落ち着いているということが考えられる。またハーレムの黒人運動のリーダー、アル・シャープトン師の影響も大きい。かつては露骨に激しい怒りを表すことで知られたシャープトン師だが、ディアロ氏の事件以来、その抗議方法を沈着冷静で確実なものへと大きく変えた。今では彼が反暴力による抗議運動の中心だ。


ところが判決からわずか5日後の3月1日、連日の抗議運動が続く中、ディアロ氏殺害現場から通り2本先で、黒人の麻薬売人マルコム・ファーガソン氏(23才)が、彼を逮捕しようとしたヒスパニック警官に射殺された。皮肉なことにファーガソン氏はディアロ氏事件の抗議デモに参加して逮捕された数少ないうちの一人であり、逮捕時の様子が偶然にも、その死の数日前にテレビ・ニュースで報道されていた。


さらに、それからわずか半月後の3月16日にマンハッタンで、やはりヒスパニックの囮捜査官に麻薬売人かと疑われた黒人警備員パトリック・ドリスモンド氏(26才)が射殺された。因みに二人とも武器は所持していなかったが、一人は売人、他方も売人ではなかったものの逮捕歴があり、これがマイノリティに対する強行な態度で知られるニューヨーク市長には恰好の言い訳となっている。市長はいずれの件でも明確な警察擁護の声明をいまだに発表し続けている。


そして3月25日、生前ドリスモンド氏が暮らしていたブルックリンのカリビアン地区で彼の葬儀が行われ、その際に遂に黒人と警察との間で衝突が起きた。群衆はまず警察が通りに設置したバリケードを押し倒し、空きビンを投げ始め、やがてそれは数千人の群衆対警官の衝突となり、27人の負傷者が出た。


ドリスモンド氏はハイチからの移民二世であり、父親はハイチではよく知られたシンガー、アンドレ・ドリスモンドである。このことがハイチ移民たちの感情を強くかき立てたことは間違いなく、葬儀に参加したカリビアンたちはハイチ国旗を振りかざし、一方で星条旗を燃やして警察と「アメリカ」に抗議した。


なぜ、ここに来て急に暴動となってしまったのか? 大方の意見は、繰り返される警察暴力に人々が遂に怒りを爆発させたのだというものだが、そこには更に複雑な事情がある。3年前にブルックリンの警察署内で警官から凄惨な暴行を受けたアブナ・ルイマ氏も含め、一連の事件の被害者のほとんどはカリブ海もしくはアフリカからの移民である。彼らのアイデンティティは、あくまでカリビアン、もしくはアフリカンである訳で、米国で生まれ育ったアフリカン−アメリカンのそれとは違う。同じ黒人ではあっても、全く違った文化を持つ外国人同士なのだ。また黒人移民たちはアフリカン−アメリカンよりも更に差別されているという事実もある。そんな彼らの怒りとフラストレーションは相当なものであるはずだが、対白人社会の抗議運動に於ては多数派のアフリカン−アメリカンにリーダーシップを委ねるしかない。しかし今回の件では、アフリカン−アメリカンであるアル・シャープトン師には、カリビアンたちの怒りを読み取ることが出来なかったのだ。だが抗議運動のリーダーたちは暴動後、徐々に舵を取り戻しつつある。葬儀以後、暴力沙汰は起こっておらず、代わりに市長と市長子飼いの市警総監に対する辞任要請の声が、かつてない程に高まっているのだ。

ミュージック・マガジン2000年5月号より転載




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