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ナイキ
〜NIKE〜
アメリカンブランド こぼれ話 #02




 鍛え上げられた身体でトラックやコートを駆け回るスポーツ選手と、カラフルなアウトフィットに身を包んだストリートのヒップホップ・キッズ〜この一見ちぐはぐな組み合わせの購買層に支えられているスポーツウェア・ブランド、それがナイキだ。


 伝説のワッフル・ソール、殿堂のエア・ジョーダン、最新のショックスなど、斬新なデザインとすぐれた機能性を持つスニーカーで常に一世を風靡し続けるナイキの歴史は、意外なことに日本の運動靴メーカーとの提携から始まっている。


 かつてオレゴン大学の陸上部でコーチを務めていたビル・バウワーマンと、同部のランナーであったフィリップ・ナイトは、1964年に共同でブルーリボンスポーツ社を興し、日本のオニツカタイガー製靴会社(現アシックス)製品のアメリカでの輸入販売を始める。71年にはブランド名として「NIKE」を採用。これはギリシャ神話の勝利の女神「ニケ」の英語読みだ。同時にニケの羽を表わした、あの誰もが知るロゴ・マーク「Swoosh(スウォーシュ)」も考案されるが、これはデザイン科の女子学生が、なんとたったの35ドルでデザインしたものだった。そして74年にはバウワーマンが朝食用のワッフルから思いついたというワッフル・ソールのランニング・シューズを発売し、大ベストセラーとする。78年に社名をいよいよナイキに変更し、84年に当時まだノースキャロライナ大のバスケ・チームの選手で、NBAシカゴ・ブルズへ入団しようとしていたマイケル・ジョーダンと契約。そしてあのスニーカーの名作「エア・ジョーダン」を発表し、爆発的ヒットとする。以後、ナイキは急成長を遂げ、2001年度の世界総売り上げは95億ドルである。


 このように一見順調に見えるナイキの業績だけれど、実はワッフル・ソールの成功のあと、エアロビクス・ブームに乗って売上げを伸ばしたリーボック社に、スポーツ・シューズ売上げ1位の座を奪われている。その起死回生策が、マイケル・ジョーダンの起用だった。


 今思えば、これはなんとも大胆かつ絶好のタイミングだった。まず、当時ジョーダンは既にカレッジ・バスケットボールの人気選手だったとはいえ、プロでも大成功するという絶対的な保証は当然なかった。ところがジョーダンは歴史に残るスーパースターとなったし、加えて84年というのは、ヒップホップがいよいよ本格的にアメリカ全土にポップ・カルチャーとして浸透しつつあった頃だ。ダンク・シュートをキメまくるジョーダンに夢中になった黒人少年たちは、ヒップホップ・ファンでもあった。彼らは先を争ってエア・ジョーダンを履き、それは直ちに彼ら独自のストリート・ファッションの必須アイテムとなった。同時にジョーダンがコートで履くユニフォームのショーツも、どんどんストリート・ファッション風のバギー(大型サイズ)になっていき、結果、バスケとヒップホップは完全にシンクロしたのだった。


 もっともナイキは、その製品に対する徹底した機能性の追及にも余念がなく、数多くのスポーツ選手の記録作りをシューズ/ウェア面から支えていることも周知の事実。つまりスポーツ用品としての優れた性能と、時代を確実に先取りするファッション性、そしてこのふたつの相互作用を世間に知らせるための、大胆かつスタイリッシュな広告戦術。この3つの要素が、ナイキがスポーツ・ウェア・ブランドのトップを走り続けている大きな理由だ。

U.S. FrontLine2002年2/5号掲載
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