NYBCT

2007/3/12
(初掲2005年4月)


ハーレムの中のアフリカ
2つの世代とアフリカ音楽


■アフリカンアメリカンと
 アフリカ移民

 私がハーレム(*)に暮らし始めて早5年が経つ。当初は単に「黒人の街」だと思っていたハーレムだが、ここにはアフリカンアメリカン(*)以外に、アフリカ諸国からの移民もいれば、ジャマイカなど西インド諸島出身者もいる。プエルトリコ系やドミニカ共和国系のラティーノも多い。

 それぞれのエスニック・グループは、それぞれにユニークな文化を持っている。音楽やダンスだけではなく、言葉や宗教、日常の習慣も違う。これがハーレムのだいご味だ。ひとつ角を曲れば、そこにはまったく違う「エスニック・ワールド」が広がっている。



西アフリカ移民の若者たちのための
クラブイベント・ポスター
フランス語と英語が混在
 今回、ハーレムの中に存在する西アフリカ人コミュニティーを、「彼らが聞いている音楽」を求めて歩き回った。キッカケはセネガル系のヒップホップ・シンガー、エイコンだった。2003年の夏、エイコンの「ロックトアップ Locked Up」(刑務所入り)という曲がヒットしていた。


エイコン

 ラッパーとの掛け合いで歌われる、ちょっと哀愁のある曲だ。ビデオクリップではゲットーでドラッグを売っていた若者が逮捕され、護送車で刑務所へと送られる。鉄格子の中でエイコンは、誰も面会に来てくれなくて淋しいと、なんだか情けないことを歌っている。

 なぜか、この曲が気になった私は、エイコンのバイオを読んで驚くべき事実を発見。彼は生まれこそアメリカだが、2歳から7歳までを両親の母国セネガルで過ごしている。アフリカ人に限らず移民の中には、アメリカ生まれの子供に母国の文化を伝えるために、子供が就学年齢に達するまで母国の親戚に預ける者がいる。

 つまりエイコンは7歳でアメリカに渡った移民と、ほぼ同じバックグラウンドを持っていることになる。アメリカには多くのアフリカ移民が暮らしているが、ヒップホップ・シーンでこれほどのヒットを出したのは、おそらくエイコンが初めてだ。

*ハーレム=ニューヨーク市マンハッタンのセントラルパーク以北に広がる黒人居住区
*アフリカンアメリカン=本稿では、北米に奴隷として連行されたアフリカ人の子孫の意


■アフリカン・ヒップホップは
 どこに?

 では、アフリカ移民の若者たちは、どれほどヒップホップを聴いているのだろうか? 知人にセネガル人の青年がいる。

 5年前にニューヨークに移住し、現在30歳のバーは、警備員の仕事をしている時こそ紺色のブレザー姿だが、普段はヒップホップ・ファッションだ。バーにアフリカ移民のヒップホップ事情を聞いてみた。

 「ヒップホップ? 好きだよ。Jay-Zとか50セントとか」「セネガルでもヒップホップは流行っていて、ラッパーやDJがたくさんいる。僕は首都ダカールの出身だけど、村落部に行っても若者はヒップホップ・ファッションだよ」


バー/警備員

 バーはセネガルにいた頃はセネガル産ヒップホップを聞いていたそうだが、今はアメリカのヒップホップを聴いている。

 「どうしてかって? ……だって同じサウンドなんだよ、両方とも」

 セネガルのヒップホップと、アメリカのギャングスタ・ラップが同じサウンド? これは実際に聴いてみなくてはなるまい。ということで、ハーレムの中にあるリトル・アフリカに行ってみた。西アフリカ人が経営する食料品店や雑貨屋が連なっていて、英語よりもウォロフ語やフランス語が使われている一角だ。ここにあるCD屋に行けば、セネガル産ヒップホップが手に入るだろう。

 店内にはアフリカン・ポップのCD, DVDがぎっしりだ。モニターでサリフ・ケイタのコンサートDVDを熱心に見ているカップルがいる。レゲエやアメリカ産ヒップホップの海賊盤もある。しかしセネガル・ヒップホップはどこに?

 店員のマケェイはセネガルから2年前にやってきて、英語学校に通いながらこの店で働いている23歳。
 「僕が好きな音楽? 50セントとか」
 またもや、キング・オブ・ニューヨーク・ギャングスタこと50セントだ。
 「セネガルのヒップホップ? もう、あまり聴かない。だってアメリカのとは違うからね」

 バーとは正反対のコメントだ。とにかくセネガル・ヒップホップを聴きたいと言うと、「うーん、ちょっと待って」と、しばらく棚をゴソゴソ探している。「あった、あった!」と、マケェイが見つけた唯一のヒップホップDVD『Prestige Rap』5ドル也を購入。

 自宅に戻り、さっそくDVDを観賞。20組のアーティスト収録のオムニバス盤だ。英語で「ファッキン・ニガー!」とラップする(苦笑)、かなりアメリカナイズされたグループもあれば、砂漠や漁村を背景に、民俗衣装を着てウォロフ語で歌うシンガーもいる。いずれにしても独特のユル〜い空気が漂っていて、なんとも言えない味がある。

 しかし本場アメリカ産のような密度の濃さやスピード感はない。見方によっては「ダサい」。これがアフリカ移民の若者たちが母国のヒップホップを聴かなくなる理由だろう。しかし移民には祖国を誇る気持ちも強い。バーが言った「アフリカもアメリカも同じサウンド」は、アフリカを誇りに思う気持ちの表れなのではないかと思う。


■アメリカ生まれの二世たち

 バーもマケェイも20代でアメリカに移住した若者だ。では、移民一世の親からアメリカで生まれた二世たちは、どんな音楽を聞いているのだろう。

 ハーレムに、アフリカ移民の子供を対象にした「ユモジャ(*)プロジェクト」という放課後プログラムがある。このプロジェクトに参加している中高校生6人にインタビューしてみた。

 「エイコンの大ファンなの! 彼は私たちをリプレゼント(代表、レペゼン)しているのよ!」

 15歳のアミナタの両親はセネガルとガンビアの出身だ。しかし娘のアメリカナイズを促すためか、部族語を教えず、英語のみで育てたという。


アメリカ生まれの姉妹/高校生


 「自分の国の言葉が話せないの?」と、14歳のダラがやや非難めいた調子で言った。マリ出身の両親を持つダラは、家の中ではバンバラ語とソニンケ語を使っている。

 いずれにせよ、ふたりとも訛りのないアメリカ英語を話すし、私が配ったアンケート用紙の「好きなミュージシャン」の欄はアッシャー、2パック、シアラ、レゲエのビーニーマン、ポップなソカのケヴィン・リトルなどで埋め尽くされた。アフリカン・ヒップホップ・ア−ティストの名は皆無だ。

 いったん音楽を離れ、「あなたはアメリカ人? それともアフリカ人?(*)」と聞いてみた。全員が「両方」または「どちらでもない」と答えた。その理由を、将来は弁護士かジャーナリストになりたいというアミナタが大いに語ってくれた。

 「だって家の中ではアフリカからやってきた両親と暮らしているし、だけどアメリカの学校に通ってるし」
 「ある時、タクシーに乗ったら、アフリカ人運転手はラジオでアフリカ音楽を聞いていたのに、私の顔を見てヒップホップ局に変えたのよ!」
 同胞が自分を見分けてくれなかったことに傷ついたらしい。
 「アフリカ人であること、子供の頃は大変だったわよ。彼らは私たちを見下しているのよ」

 この場合の「彼ら」とはアフリカンアメリカンを、「私たち」とはアフリカ人を指している。生粋のアメリカ人であるアフリカン・アメリカンにすれば、同じ黒人であってもアフリカ人は「第三世界からの出稼ぎ人」なのだ。

 「このプロジェクトに参加して自分たちの誇りを学ぶまでは、アフリカ人であることを隠すこともあったの」「エイコンはアフリカ人であることを隠さないでしょ! すごいわ!」

 他の少女が口をはさんだ。「エイコンだって売れる前はアフリカ人であることを隠してたかもね」。

*ユモジャ:スワヒリ語で「結束unity」を意味する。umoja

*アフリカ人=アメリカでは国籍に関して出生地法を取ってるので、両親の国籍に関わらず、アメリカ生まれの二世たちはアメリカ国籍を持つ。しかし文化的にはアフリカ人であるという自覚を持つ者が多い


■アフリカン・プライド

 そろそろニューヨークにおける西アフリカ音楽シーンの全体像を語れる人に会ってみよう。

 先のCD屋でマケェイが「絶対に楽しいよ!」と勧めてくれたのが、セネガル人シンガー、ファロウ・ディエンのコンサートだ。「第二のユッスー・ンドゥール」と称される人気シンガーだが、マケェイだけではなく、これまでにインタビューした若い人のほとんどが、50セントやJay-Zと同時に「ユッスー・ンドゥールも好き」と言い、ディエンのことも知っていた。

 そのディエンのコンサートを企画している「ニュー・アフリカン・プロダクション・インク」の主宰者ビラネ・サル氏にインタビューすることができた。ビラネもセネガル出身で、12年前にニューヨークに来たと言う。


ビラネ・サル/音楽プロモーター

 
 まずは、ニューヨークでアフリカン・ヒップホップ・シーンを見つけられなかったことを告げると、明快な答えが返ってきた。

 「考えてごらん。ここにはアメリカ人ラッパーやDJが掃いて捨てるほどいる。誰がアフリカ人ラッパーを聞きますか?」

 なるほど。私の過去1ヶ月間のリサーチはまるで意味がなかったわけだ(涙)。では、アメリカ生まれの二世の中から、第2のエイコンは誕生するだろうかとの問いには「もちろんだ。しかし、ラップのリリックときたら、どれもこれも意味がないね」

 どうやらヒップホップはお嫌いのようだ。ところで、今回のディエンも含め、大物アフリカ人ミュージシャンはアフリカ在住者ばかり。ニューヨーク市発行の移民白書には、ここに9万2千人のアフリカ移民が暮らしているとある。その中に優れたミュージシャンはいないのだろうか。

 「アフリカ移民は仕事で忙しく、なかなか音楽をするヒマがない。ビザの問題も大きいしね」

 これに関しては、後に改めて触れよう。

 アフリカ人ミュージシャンの中には、マンハッタンのダウンタウンにある有名なクラブで演奏する者と、ハーレムでコンサートを開く者がいる。これについてビラネは「アフリカ移民はダウンタウンまで行くヒマがないんだよ。でも私たちの企画するコンサートにはハーレムだけではなく、ニューヨーク中からやってくる」と、誇らしげに答えた。

 実のところ、ダウンタウンでのライヴにはワールドミュージック・ファンのアメリカ人しか来ない。その多くは白人だ。他方、ハーレムのコンサートでは、客はアフリカ移民オンリーとなる。

 最後に、アメリカに於けるアフリカ音楽シーンの行方を聞いてみた。「私は予言するよ。あと3年待てばアフリカ音楽がブレイクする。人々はもう何年もヒップホップを聴いてきた。飽きているはずなんだ」

 この強引なまでのポジティヴ・シンキングと、自国の文化に対するプライド。まさに移民の真骨頂だ。

■コンサート for アフリカ移民

 ビラネは私に「コンサートにぜひ来て欲しい」し、「当日、ディエンにインタビューさせてあげよう」と言ってくれた。ところが、なぜかディエンにアメリカ入国のビザが降りず、コンサートは急遽中止となってしまった。

 このままでは本稿のハイライト部分が書けないと焦った私は、またもやハーレムのリトル・アフリカに急行。幸いなことにギニアの人気シンガー、セクバ・バンビーノの追加公演が、その日の夜に決まっていた。



 コンサートはハーレムにある高校の講堂で開かれた。立ち見も出る盛況振りで、観客数はおそらく400〜500人程度。

 まずは女性客の豪華な衣装に圧倒された。アフリカの民俗衣装なのだが、スパンコールやらビーズやらの付いた、やたらと豪華な晴れ着ヴァージョンだ。

 狭いコミュニティーゆえ、コンサートが始まるまでは誰も彼もが「あらぁ、久しぶり!」「元気かい?」といった感じで挨拶の交換に忙しい。



ギニアのスーパースター
セクバ・バンビーノ



民族衣装で着飾って踊る女性たち

 待つこと4時間(!)、いよいよステージにMC登場。フランス語での語りの最後に「セクーバァー・バンビィーノォー!」と叫ぶや、客席からは「ヒョーッ!!」と大きな歓声が上がる。バンビーノは爽やかなブルーの民俗衣装をまとい、軽やかにステージ中央に躍り出て歌い出す。

 1曲目の途中、2〜3人の女性客がステージの前まで進み出て、数枚の1ドル札をステージにまき散らした。おひねりだ。やがて他の女性客が続々と立ち上がり、通路に列を作って次々とステージまで行進しては大量のおひねりを投げる。それからステージの前で踊り出すのだ。みんな笑顔で、さも楽しそうに踊っているが、しばらくすると、さっさと席に戻っていく。するとステージに10歳くらいの少女が上がり、朗々と歌い続けるバンビーノの足下にある紙幣をかき集めては大きなビニール袋に詰め込む。

 この一連の「儀式」が、3時間のコンサート中、約15分に1回の頻度で延々と繰り返された。

 このコンサートで裏方を務めていた、コートジヴォワール出身、ハーレム在住のミュージシャン、アブゥによると、これは西アフリカ音楽のコンサートでは必須のことで、大きな会場で行われる場合は、おひねりが1万ドル集まることもあるそうだ。


■アフリカ人であるということ、
 移民であるということ

 セクバ・バンビーノはギニアのトップスターだ。1970年代半ばに10代で、当時、非常に人気のあったベンベヤ・ジャズに加入。グループ内でいちばん年下だったために、バンビーノ(赤ちゃん)というニックネームがついた。後にソロとなり、41歳となった今もその若々しい歌声により、女性ファンを惹きつけて止まない。





アブゥ/ミュージシャン

 セネガル人のディエンが「第2のユッスー・ンドゥール」と呼ばれているのに対し、バンビーノは「サリフ・ケイタに次ぐシンガー」と言われて久しい。バンビーノはギニア人、サリフ・ケイタはマリ人だが同じマンデ族であり、マンディンゴ語を話す。このようにアフリカでは時に国境線は意味を持たず、これが多くのアフリカ人が出身国にこだわることなく、自らを「アフリカ人」と呼ぶ理由だ。今回のコンサートの観客にもセネガル人、マリ人、ギニア人、コートジボワール人などが混じっていた。

 このコンサート、開始予定時刻は午後10時だったが、客が本格的に入り始めたのは12時頃。前座の「アフリカのティナ・ターナー」ことミシアン・サラン・ジャバテが歌い始めたのは、なんと午前2時で、コンサート終了は明け方の5時。

 「アフリカ移民は男はタクシー運転手、女は美容師だ。どちらも遅くまで働かなくちゃならない。それから自宅に戻り、シャワーを浴びておしゃれをする。だから早い時間には始められないんだ」と、アブゥが解説してくれた。

 アメリカ政府の移民政策はきびしく、大卒資格を持たない単純労働者が就労ビザを取ることは難しい。したがって不法滞在者が多いが、母国の家族に仕送りをするためにふたつの仕事を掛け持ちしている者も珍しくない。彼らはどれほど懸命に働こうが、何年アメリカに暮らそうが、社会保障制度の恩恵にあずかることは出来ず、生活は不安定。しかも何らかの事情で移民局に身元がばれれば、アフリカに強制送還となる。

 アフリカ移民たちが、コンサートのためにわざわざ豪華な衣装をオーダーメイドし、そのドレスが乱れることも気にせず大いに踊り、おひねりを大量にまき散らすのを見ていると、彼らの厳しい生活環境は想像もできない。マンディンゴ語とフランス語による歌詞は私には理解できないが、プロモーターのビラネは、移民の生活の苦しさが歌われることも多いと言った。

 こう書くと、いかにも苦労の多い、社会最下層グループのように思えるかもしれない。しかし私の知る限り、アフリカ移民たちは生真面目だが、焦ることや、極度に落ち込むことをしない。鷹揚に構え、毎日の仕事を淡々とこなしているように見える。そして身内の結婚式やコンサートといったイベントがあると、お金をかけておしゃれをし、盛んにおしゃべりをし、笑って、踊って、盛大に楽しむのだ。

 アフリカン・アメリカンの街ハーレムの中でひっそりと暮らすアフリカ移民たちが、こんな風に人生を謳歌していることを、アフリカン・アメリカンたちは知る由もない。


ミュージック・マガジン2005年4月号掲載


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禁無断転載 文・写真:堂本かおる