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R&B/ソウル
ブラックミュージック!!

R&B/ソウルとは、つまりはブラック・ポピュラー・ミュージックのこと。大胆に“黒人歌謡曲”と言い切ることさえ出来る。しかし、そのソウル(魂)とは?


 1940年代までジャズはダンス・ミュージックとして人気のある音楽だったのに、いつしかアートな鑑賞用音楽となってしまい、一般の黒人大衆には興味のわかないものとなってしまった。その代わり、ジャズの中でもとびきり陽気な“ジャンプ・ブルース”にゴスペルのフレイバーが加わり、次第にボーカル主体へと変化して、それが“R&B(リズム&ブルース)”となった。60年代にはR&Bがさらにファンキーになって“ソウル・ミュージック”と呼ばれ始めたが、このふたつのジャンルの境界線は曖昧で、だから“R&B/ソウル”と表記されることも多い。しかも、その誕生から現在に至るまでの約60年間、“歌は世につれ、世は歌につれ”の原則通り、R&B/ソウルも様々に変化を遂げてきた。だから「R&B/ソウルってこんな音楽」と、ひと口で説明するのはちょっと難しい。


 1945年に第二次世界大戦が終了し、戦勝国アメリカは笑いの止まらない躁状態だった。ところが黒人は相も変わらずの二級市民扱い。子供たちは白人と同じ学校には通えなかったし、大人だって選挙の際に投票も出来なかった。そんな状況に我慢できなくなった黒人たちは、1950年代に入ると、差別をなくして人間としての尊厳を取り戻すための戦い“公民権運動”を展開していった。たくさんのデモが繰り広げられ、その度に白人や警官から迫害を受け、それでも怯むことなく運動は続けられた。その甲斐あって1964年には差別を禁じる公民権法が成立。しかし、偏見に凝り固まった人の心を一夜にして変えることは出来ず、1965年にマルコムX、1968年にはキング牧師と、ふたりの偉大な黒人運動リーダーが相次いで暗殺されている。けれど、こんなにも苦しく緊張感に満ちた時代にも、黒人は音楽を忘れなかった。彼らのコミュニティには、いつだって楽しいR&B/ソウルが流れていて、彼らを勇気づけ、微笑ませ、時には一晩中踊らせ、また涙ぐませもした。


 50〜60年代にはレイ・チャールズなどのソロ・シンガーやボーカル・グループが数えきれないほど登場した。テンプテーションズなどの男性グループはファルセット(裏声)で甘いフレーズを繰り返しささやき続け、シュープリームスを筆頭に女性グループはキュートなファッションでコケティッシュに歌った。一方、ティナ・ターナーはダイナマイトと呼ばれるパンチのある歌いっぷりでチャートを賑わせ、ソウルのゴッドファーザーことジェームズ・ブラウンは、いつだって思いっきりファンキーなサウンドと、目を見張るダンスを見せてくれた。とまあ、この時期のR&B/ソウル・シンガーを列挙したら、それだけで本が一冊書けてしまうほど。


 この後、70年代のアメリカではヒッピー・ムーブメントとドラッグ・カルチャーが巻き起こり、黒人音楽側からの回答としてファンク・ブームが起こった。“ファンク”という言葉の本来の意味は“体臭”。ねっとりとベースの効いたグルーブ感たっぷりのサウンドとサイケなファッションが一世を風靡し、ブーツィ・コリンズ、ジョージ・クリントンという2大ファンク・スターが生まれた。ジェームス・ブラウンは70年代に入っても益々ファンキーだったし、スライ&ファミリー・ストーンというヒッピー&ロック寄りのファンク・バンドも現れた。正確にはR&B/ソウルとは区別されるファンクだけれど、当時は多くのソウル・シンガーがファンク・ナンバーを歌った。


 そして80年代はディスコの時代。ヨーロッパ発のコンピュータライズされたディスコ音楽が大ヒットし、ビー・ジーズがテーマ曲を歌った映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が一大ブームとなった。けれど、これらの白人によるディスコ・サウンドはR&B/ソウルをヒントに作り変えられたもの。黒人は「またしても白人に自分たちの音楽をパクられた」と地団駄菓を踏んだ。かつてリトル・リチャードが生み出したロックンロールをエルビス・プレスリーに盗まれたと、彼らは主張するのだ。しかしこの時期、シック、クール&ザ・ギャング、アース・ウインド&ファイアーなど多くの黒人ミュージシャンが抜け目なくディスコ・ナンバーをリリースし、大ヒットさせた。


 90年代以降はR&B/ソウルもヒップホップの洗礼を受けずにはいられなかった。シンガー自身が子供の頃からラップを聴いて育った世代だからだ。そんな新世代のシンガーを、ヒップホップ系プロデューサーが手掛けてヒットを出すことも増え、メアリ・J・ブライジなどは“ヒップホップ・ソウルの女王”と呼ばれているほど。しかしながら、ボーカルが主体の、もっとも基本的なブラック・ミュージックであるR&B/ソウルがこの世から淘汰されることなど永遠にありはしないだろう。




● オーティス・レディング ●

 1941年、深南部ジョージア州に生まれたオーティス・レディングは、ディープな声と、ブラス(管楽器)を取り入れた派手なアレンジが特徴の、典型的なサザン・ソウル・シンガー。汗の飛び散る迫熱のライブがトレードマークだった。1964年にリリースされたオーティスのデビュー・アルバム「ペイン・イン・マイ・ハート」は、とても22歳の青年とは思えない深い情感と熱いソウル(魂)に満ちており、人々を驚かせた。以後、ヨーロッパでのコンサートも含め、精力的に活動を展開。ところが1967年に飛行機事故により死亡。音楽活動を始めてからわずか5年、弱冠26歳だった。死後、事故の数日前にレコーディングされていた「ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ」がリリースされたが、この名バラードはオーティス・ファンの涙をそそると共に全米ナンバー・ワンとなり、現在に至るまで聴き継がれている。


 オーティスは後続のR&B/ソウル・シンガーにはもちろん、白人ロック・シンガーにも大きな影響を与えたが、同時に自身もローリング・ストーンズの「サティスファクション」をカバーするなど、クロスオーバーな動向も見せており、将来の展望が期待されていた。オーティスの死はブラックミュージック・シーンだけではなく、ポピュラー音楽界全体にとって、計りしれない大きな損失だった。



1: ヒップホップ/モス・デフ
2: R&B ソウル/オーティス・レディング
3: モータウン/ダイアナ・ロス
4: ジャズ/マイルス・デイヴィス
5: ブルース/スリーピー・ジョン・エスティス
6: ゴスペル/カーク・フランクリン
7: 年表で見るブラックミュージックの歴史

U.S. Front Line No.168(2002/08/20号)掲載記事
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