NYBCT

モータウン
ブラックミュージック!!

モータウンは単なるレコード会社ではない。際立ってユニークなサウンドと輝かしい成功ゆえに、これは“モータウン”というジャンルだとさえ言える。では、その大きな魅力とは?


 自動車の街として多いに栄えていた1950年代のデトロイトに、ベリー・ゴーディJr.という野心家の若い男がいた。59年、彼は勤めていたリンカーン/マーキュリー社の組み立て工場を辞め、家族から借りた800ドルを元手に小さなレコード会社を設立した。これがモータウン社の前身のタムラ・レコード社。この小さなインディーズ・レコード会社は設立元年に早くもトップ10ソングを生み出し、幸先の良いスタートを切った。


 翌60年にはモータウンに社名を変更。これはデトロイトのニックネーム“モーター・タウン”を縮めたもの。以後、やり手のベリー・ゴーディJr.はマーサ&ヴァンデラス、マーヴィン・ゲイ、フォー・トップス、シュープリームス、テンプテーションズ、グラディス・ナイト&ピップス、スティービー・ワンダー、弱冠11歳のマイケル・ジャクソンを擁するジャクソン・ファイブ、と数えきれないほどの人気アーティストを育て、音楽界に一大センセーションを巻き起こした。当時、R&B/ソウル専門の人気レーベルにはスタックス、ハイ、サン、アトランタなどがあり、それぞれが特徴的なサウンドを持っていたが、そのほとんどはディープな南部系の音だった。対してモータウンは口ずさみやすいポップなメロディ、覚えやすい振り付け、洗練された都会的なファッションが特徴で、子供から大人まで、さらには白人にまで人気が広まった。そのヒット曲を作っていたのが、当時ミラクルズのメンバーで、後にモータウン副社長となったスモーキー・ロビンソンと、作詞作曲編曲トリオの“H-D-H”ことホランド・ドジャース・ホランド。彼らの手による、一聴してモータウンとわかる独特の曲調と、ベリー・ゴーディJr.による完璧なイメージ戦略がモータウン成功の鍵だったと言える。


 60年代はモータウンの絶頂期であると共に、公民権運動が燃え盛った時代でもあった。黒人には料理を出さない食堂に、若者たちが嫌がらせをものともせずに座り込みを続けた“シット・イン”、平等を訴えてバス・ツアーを始めたら、1,000人もの暴徒に襲われた“フリーダム・ライド”、ミシシッピ大学に初の黒人学生が入学したことから起こった“ミシシッピ暴動”、NAACP(全米黒人向上協会)のリーダーの殺害、公民権運動に賛同する25万人が参加した“ワシントン大行進”、アラバマ州の黒人教会に仕掛けられた爆弾による4人の黒人少女の爆死、34人が亡くなったLAの“ワッツ暴動”…当時、ラジオからはこういったニュースと、ポップでスウィートなモータウンのメロディが交互に流れていたのだ。


 同時期にベトナム戦争も長期泥沼化し、その虚しさを訴えて大ヒットしたのが、71年にリリースされたマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」。それまでのモータウンにはなかった政治的な内容の作品ゆえにベリー・ゴーディJr.はリリースを危惧したものの、フタを開けてみると同社の記録を破る売上げとなった。これを引き金に、スティービー・ワンダーもメッセージ性の高い歌詞と、実験的なサウンドをブレンドさせた“ニューソウル”路線の作品を発表し始め、74年には「インナービジョンズ」が第16回グラミー賞のアルバム・オブ・ジ・イヤーを獲得。黒人が同賞を受賞したのは、これが初めてのことだった。


 80年代に入ると“ブラコン”(ブラック・コンテンポラリー)と呼ばれる、メロウなR&Bが流行。モータウンに於けるブラコンのトップ・スターとなったライオネル・リッチーは「セイ・ユー、セイ・ミー」などの大ヒットを連発した。けれど全盛期60年代のような勢いはモータウンにはもはやなく、ベリー・ゴーディJr.は88年にモータウンを他社に売却してしまう。しかし、銀行が黒人には融資をせず、従って黒人が事業を興すことが困難だった時代に、家族の支援で小さな会社を始め、それをたった数年で誰もが知る大手レコード会社に育ててしまったベリー・ゴーディJr.。彼のビジネスマンとしての才覚も、モータウンの甘酸っぱいサウンドと共に、十分に評価されてしかるべきだろう。




● ダイアナ・ロス ●

 1944年にミシガン州デトロイトに生まれ、低所得者団地に育ったダイアナは、高校の同級生たちとガール・コーラス・グループ、プライメッツを作り、設立されたばかりのモータウンに売り込みをかけた。ところが社長のベリー・ゴーディJr.に「高校を卒業してから出直して来い」と追い返されてしまう。2年後にようやくモータウンと契約し、名前をシュープリームスと変えてデビューしたものの、当初はさっぱり売れなかった。ところがH-D-Hによる曲を歌い出した途端にチャート1位を連発し、瞬く間にスーパースターの座に。特にダイアナは、そのか細い声、スリムな体型とキュートなファッションで国民的アイドルとなった。


 この頃からダイアナは、後に世間にも広く知られることとなるエゴを発揮し出す。まずはグループから気に入らないメンバーを追い出し、名前も“ダイアナ・ロス&シュープリームス”に変え、70年には遂にソロとなった。次には映画界への進出第一弾として、伝説のジャズ・シンガー、ビリー・ホリディの伝記映画「レディ・シングス・ザ・ブルース」に主演し、アカデミー賞にノミネートされている。81年にはライオネル・リッチーとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」を大ヒットさせるが、この年、育ての親ともいえるモータウンを離れてRCAに移籍。ところが80年代後半になって売上げに翳りが見えてくるとモータウンに復帰。ところが99年にまたもや他社へと移っている。けれど大輪の花のようなあでやかさとカリスマ性を持つダイアナ・ロスは、この世代の黒人女性歌手の中では最も成功したひとりであり、またマイケル・ジャクソンを見い出した功績も大きい。そして、なによりもシュープリームス時代のヒット曲は、どれもが不滅の魅力に溢れている。





1: ヒップホップ/モス・デフ
2: R&B ソウル/オーティス・レディング
3: モータウン/ダイアナ・ロス
4: ジャズ/マイルス・デイヴィス
5: ブルース/スリーピー・ジョン・エスティス
6: ゴスペル/カーク・フランクリン
7: 年表で見るブラックミュージックの歴史

U.S. Front Line No.168(2002/08/20号)掲載記事
無断転載・転用は固く禁じます


ホーム